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1. 対馬丸撃沈事件とは
(1) 背景
1941年12月にはじまったアジア太平洋戦争。翌年の夏から日本軍は敗戦を重ねるようになり、1944年7月7日、ついにサイパン島が占領されました。「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で、政府は奄美大島や徳之島、沖縄県の年寄り・子供・女性を島外へ疎開させる指示を出します。
予定人数は、日本本土へ8万人、台湾に2万人の計10万人。しかし県民の疎開はなかなか進みません。「勝つ、勝つ」を繰り返す軍の言葉に、沖縄が本当に戦場になるのか判断がつかず、また周辺海域の危険をそれとなく知っていた県民にとって、船に乗ることは一つの「賭け」でした。7月19日、県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令し学校単位で疎開事務をすすめます。多数の兵士が沖縄に移駐し大量の食糧が必要になり、足手まといになる民間人を県外へ移動させることは急務だったのです。いっぽう子ども達は「ヤマトへ行けば汽車にも乗れるし、雪も桜もみることができる」と修学旅行気分ではしゃいでいました。
(2) 対馬丸の出航と撃沈、漂流、救助
対馬丸(6754トン)は、1944(昭和19)年8月21日夕方、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788名を乗せ、同じように疎開者を乗せた和浦(かずうら)丸・暁空(ぎょうくう)丸と護衛艦の宇治(うじ)・蓮(はす)を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指し出航しました。しかし翌22日夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け対馬丸は沈められてしまいます。建造から30年も経った老朽貨物船・対馬丸は航行速度が遅く、潜水艦の格好の標的だったのです。
ほとんどの乗船者は船倉に取り残されましたし、海に飛び込んだ人も台風の接近に伴う高波にのまれました。犠牲者数1418名(氏名判明者=2004年8月現在)。イカダにすがって漂流した人々は、付近の漁船や海軍の哨戒艇に救助されたほか、奄美大島まで流されるなどして生き延びたのです。
(3) 「対馬丸」のその後
救助された人々には「箝口令(かんこうれい)」がしかれ、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁じられました。犠牲者や生存者に関する詳細な調査も行われず、沖縄に残された家族に正しい情報が伝わることはありませんでした。また対馬丸事件の後、10月10日には那覇を中心に大空襲があり、翌年の地上戦では県民の4人に1人が犠牲になるなど、 さらなる戦争被害を被ったため、対馬丸撃沈事件が知られるようになったのは戦後しばらく経ってからでした。大人が起こした戦争の為に理不尽にも幼い子どもたちがその犠牲になったことから、戦後「“学童疎開船”対馬丸の悲劇」として語られるようになっていきました。
2. 「対馬丸記念館」の建設
(1) 経緯
1950年10月、犠牲者の家族たちは遺族会の活動をスタートさせました。1997年、遺族会からの要請に基づいて行われた悪石島(あくせきじま)沖海底捜索の結果、12月12日船体が発見されました(北緯29度31.93分、東経129度32.90分、水深871m)。遺族は引き揚げを要求しましたが政府は対馬丸船体引揚げ可能性調査検討専門家会議の結論を受けこれを不可能とし、代替案として「記念館」の建設が持ち上がりました。2001年6月、「対馬丸記念館」が全額国庫補助で建設されることが決まり、対馬丸遭難者遺族会は財団法人対馬丸記念会へ組織移行し、記念館建設のための独自運営を始めたのです。
(2) 展示に込められた思い
対馬丸に乗船していた疎開者のうち、半数は学童集団疎開の子どもたちだったことから、館内の展示は 「子どもと戦争」に焦点をあてることとしました。対馬丸記念館は「対馬丸の子どもたち」と「今を生きる子どもたち」が出会い、戦争や平和について対話できる空間でありたいという思いがありました。
しかし、記念館には展示する「もの」がありませんでした。犠牲者の遺品や遺影は、十・十空襲やその後の地上戦でほとんど消失しましたし、たとえ残っても戦後の混乱の中で紛失してしまったり、持ち主がいない「もの」たちを遺族が廃棄してしまう例も少なくなかったのです。なによりも60年の年月の経過によって、多くの遺族が他界してしまったという現実的な問題もありました。
わずかな一次資料や 遺品・遺影を集めながら、同時進行させたのは生存者・遺族の証言を記録することでした。展示スペースが狭隘なため(常設展示室の面積は、ひめゆり資料館の約4分の1)集めた証言を「展示物」として設置できないことから、資料と証言を一つのパネルにおさめることにしました。来館者に、頭と心の両方で対馬丸撃沈事件を知って欲しいというねらいです。
また、来館する子どもたちが等身大であの時代を感じ、受け止めることが出来るよう、文字ばかりでなく写真やイラスト、復元物なども多用しました。小学校高学年生でも理解できるよう、漢字にはルビをふり、解説文では出来る限り難解な語句を避けるなど、注意しました。
開館時には遺影101点(116名分)、14名分の遺品を展示します。また「対馬丸の子どもたちがもし言葉を発してくれるなら今の社会に何を語りかけるだろう」という発想で、常設展示室の最後に「対馬丸の子どもたちからあなたへ」というメッセージを掲げました。対馬丸の子どもたちとの対話の時間です。
3. 旭ヶ丘(あさひがおか)公園を「平和の杜」に
対馬丸記念館の建つ那覇市旭ヶ丘公園には、対馬丸犠牲者の慰霊碑「小桜の塔」を始め、「台湾遭害者の墓」「戦没新聞人の碑」「海鳴りの像」など、多くの碑石類が存在します。対馬丸撃沈事件を沖縄や日本 の歴史の中に位置づける学習に、これらの碑を活用し、旭ヶ丘公園全体をフィールド学習の場に創り上げていきたいと考えております。また、平和創造にむけたあらゆる取り組みに対し開かれた施設としてあり続けたい、対馬丸記念館は「見る」だけでなく 「活用する」場所であり、思いを同じくする人々が集える場でありたい、というのが記念館を運営する財団法人対馬丸記念会の目指すところです。 |
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