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04.撃沈

対馬丸は那覇港を出航して27時間30分後、アメリカの潜水艦ボーフィン号によって撃沈されました。昭和19(1944)年8月22日夜10時12分ごろ、トカラ列島悪石島の北西約10キロ地点でのことです。

いまわしいその時が…

「ドーン」という爆発音と激しいゆれで飛び起きました。
「船がやられたぞー!」という叫び声があっちこっちから上がりました。(上原 清 著 『対馬丸沈む』 より)

攻撃は、乗船者の多くが深い眠りに落ちていた夜中の出来事であり、10分足らずで沈没したためほとんどが船倉に取り残されました。また、脱出に成功した人も接近中だった台風の影響で、高波に呑まれ、多大な犠牲を出しました。

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対馬丸の沈没地点

対馬丸を攻撃した潜水艦

対馬丸を攻撃したBOWFIN(ボーフィン)は、全長約95メートル、最大で24本の魚雷を搭載できる潜水艦です。

ニックネームは「真珠湾の復讐者」
ボーフィン号は1943年8月から1945年7月まで、9回にわたって南西太平洋を中心にパトロールしています。現在、ハワイ真珠湾のボーフィン記念公園内に実物が展示されています。

ボーフィンはヴィシー・フランスの商船1隻を含む15隻の商船と海防艦1隻、合計で68,032トンの船を沈めた (wikipediaより)。

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記念公園内に現存するボーフィン号

対馬丸撃沈の瞬間 

対馬丸一等運転士・小関保が、死亡した船長に代わって書いた
“最後の瞬間”です。

以下、『遭難報告書』より
(前略)左舷約八〇度、距離約五〇〇メートルに駛走(シソウ)し来れる数本の雷跡を発見、直ちに取舵一杯(後略)

(前略)回避を試みたるも瞬なく第一魚雷は船首前方を通過、第二魚雷は第一艙(フナグラ)左舷に、続く第二番艙および第七番艙左舷(中略)第五番艙右舷に各一本宛命中(後略)

(前略)被雷後約十分間にして船体いよいよ沈没に瀕するや、船長および連絡将校を最後として各自をして海中に飛び込ましたるがついに二十時二十二分ころ船尾をひねりつつ沈没せり(後略)

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対馬丸一等運転士・小関保によって作成された遭難報告書

乗船した子どもたちの気持ち

明かりは消え、真っ暗な船倉の中で恐怖の渦の中にいた学童たちは、一刻も早く外に出ようと縄ばしごに群がり大混乱。押し合いへし合い、上がっていこうとする者の足を引っ張る者やそれを振り払う者、落ちる者…。「助けてー!」「おとうさーん!」「おかあさーん!」と悲鳴や泣き叫ぶ声があがっていた。


(上原 清 著 『対馬丸沈む』 より)

対馬丸とボーフィン号の航路

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